普通さとキラキラと決然と生きるという事について

 

 

今日も暑い。

 

 

決然と生きましょう、と東京で会ったマブダチの人は言った。結局三日連続で行った古びた喫茶店で、或いはどこかの居酒屋で、或いは炎天下の中道を歩いていた時に。決然、決然、そうですね、それは重要ですね、と言いつつ、決然と生きるというその内実について、この時点では実はよく分かっていなかった。ごめんなさい。許して。

 

東京に行って、マブダチの人達、お友達の人達、お知り合いの人達、お名前だけ存じ上げていた人達、存在する事を知らなかった人達に会った。全ての人が寛容で、存在を認められて、存在することを許されている感じがした。おかしいな、と思った。少しおかしい。いやかなりおかしい。確実に間違っていると思った。そう思う一方で、非常に居心地がよかった。救済すら感じた。心の奥深くから本当に感動した。奇妙だった。

こちらに帰ってきて一週間、ああ、あの感覚が人権を得ているという感覚なのだなと思った。別にこちらで人間扱いされていないという訳ではない。むしろ周囲の親しい人々には大事に大事に本当に大事にされていると思う。何だろうか、異物としてではなく世界の一部としてごく当たり前に受容されたとでも言えばよいのか。東京では私の「普通じゃなさ」が普通の事として当たり前のように受容されていた。「普通じゃない」が普通だった。「普通じゃない」は普通じゃないのが当たり前で、だから標準性にあこがれて道を踏み外さないように頑張って歩いているつもりなのに、結局斜めに向かって歩いてしまって人とぶつかり冷や汗をかいてきたのだが、あの場では斜めに歩いていても「斜めに歩く人なんだなあ。そっかー、いいじゃん」で完結している気がした。ぶつかっても笑ってくれていた。今までの人生では、「斜めに歩…へえ(苦笑)」みたいな、「いや面白いよね(苦笑)」みたいな、引き気味の反応で、いや別にその反応に傷付くなんて事はなくって、むしろその反応って当たり前だとも思うんですけど、やっぱりそうだよねっていう、やっぱり「普通じゃない」は普通じゃない。普通じゃないのだ。トートロジーか。

私にとって「私は普通ではない」という命題は呪縛だった。ずっと普通になりたかった。平凡でもなんでもいいから普通の反応をするずれてない普通の人になりたかった。でも普通になれない。多分根本が普通じゃないから普通にはなれない。上っ面では普通になれるけど根本は普通じゃない。ずっと普通じゃない。物心ついた頃から変わってると周囲の人々に言われ続けて、劣等感を抱いてきた。宗教も普通じゃない。皆キリスト教徒じゃないから、初詣にも行くし占いだってするし墓参りに行ってお線香を刺したりだって、なんだって出来る。小中学生の頃、日曜日遊ぼうと言われてもその普通じゃなさに劣等感を抱いて、日曜日は家族みんなで買い物に行くからと友人に嘘を吐き続けていた。多分嘘だってばれていた。それでも動悸を覚えながら嘘を吐き続けた。辛かった。身体も人より弱くて普通じゃない。昔に比べたら強くなってきたけれどそれでもやや頻繁に体調を崩して、布団にもぐって劣等感の海にダイブする。心身共に普通じゃないのが私にとっての普通。私にとっての普通は普通じゃない。つまり私は普通じゃない。普通じゃない。変わってる。普通じゃない。変な人。普通じゃない。呪いかよ。みたいな。標準性という呪い。普通のゲシュタルト崩壊。普通って何だ。皆の普通が分からない。普通。標準性。普通。ふつう、ふつう、ふつう。狂ってる。本当に狂ってる。

 

 

「私は普通ではない」という実は真偽の定まっていない命題に勝手に劣等感を覚えるという謎サイクルに乗っかってずっと生きてきた。いや多分真だと思うけど。ともかく、だから決然と生きるなんて、そんなの考えた事もなかった。私が決定する事なんて、考える事なんて、普通じゃないから禄でもないと諦めて、途中までは自分で決定しても、最終的には結局他者の大いなる決定に寄りかかって生きようとしていたのだと気付いた。普通じゃないから、普通の人が作り出す流れに寄りかかって生きようとしていた。だって私は普通じゃないからそれがベターに決まってるんだと無意識に思っていた。これは自分が誰かを傷付けるという事を避けて、それなら私が諦めて他者に従おうという生き方だ。クズみたいな生き方だ。責任を他者に擦り付けようとする生き方だ。最高に卑怯な生き方だ。そもそも生きてない。私は自分の人生を生きていないじゃないか。

 

決然と生きる。

 

それはきっと自分からリスクを受け入れてでも自分の生きたい人生を生きようという覚悟だ。普通じゃなさを堂々と普通じゃなさとして受け入れて、何だか分からない「普通」とぶつかって血を流してでも私として生きようという戦いの覚悟だ。それが私にとっての決然と生きるという事の意味だ。ようやく分かった。マブダチの人が言っていた意味がようやく分かった。一週間以上経って、ようやく。もっと言えば、四半世紀以上生きてきて、ようやく「自分の人生を生きる」という言明の意味が分かった。そうか、そういう意味だったのか。目から鱗だわーみたいな気持ちでいる。勿論これは「普通」とわざとぶつかって、普通の人を傷付ける覚悟ではない。ぶつかった時に、過剰に卑屈にならないで、私はこういう人間でこういう事を考えているの、と後ろめたさなく堂々と言えるようになろうという覚悟だ。実際普通なのかも分からない「普通さ」に勝手に傷付くのも、ボロボロに傷付けられるのも、やーめた、という気持ちだ。今、凄く心が軽い。どこにでも飛んでいけそうだ。いっちょイデア界行くか。

 

東京に行かなかったら分からなかった。東京で様々な人達に会わなかったら分からなかった。きっとズルズルと他者に責任を押し付けて生きていっていた。決然と生きたいと思う事は出来なかった。私の人生にも尊さがあるという事に気付かなかった。普通じゃなさをそのまま普通の事として受け入れてくれる、奇妙だけれど変だけれど救済すら感じた感動的なあの場を体験しなかったら、普通という呪縛を取り払って普通じゃないまま生きる事が出来るという可能性にすら気付かなかった。別に普通じゃなくていいじゃんと、いやいやそのままでいいじゃんと、気を遣うでもなくごく当たり前の事を言うように言ってくれて、笑ってくれる人々がいなかったら本当に分からなかった。涙が出るくらいの救いを感じたのだ。本当に。本当に本当に、本当に私は感動したのだ。真正に、まさに、それは救済だった。その言葉を発した人々は軽い気持ちで言ったのだと思うけれど、私にとっては、ピカピカで、キラキラで、本当に眩い宝石みたいな言葉だった。重くてごめんなさいね。でも本当なんですよ、許せ。

 

今まで人間が人間を救済する事は不可能だと思って諦めて生きてきたのに、結局私は人間の言葉に救済された。人間の持つ寛容さに救済された。人間って凄いんだと思った。ほんの些細な事で他人をここまで救えるんだと驚いた。だからこその人類愛。人間にもっと希望を持ってもよいのかもしれないとすら思えた。人間種を例化している存在者の尊さと彼らの持つキラキラに、もっと寄りかかってもよいのかもしれないと思ったのだ。人類への感謝と愛おしさが湧き出てきた。ありがとうございますって、大好きです愛してますって、周囲のお世話になってる人達、遠くのマブダチの人達、遠くの近くのお友達、遠くの近くの知り合いの人達全員に言いたい。大声で言いたい。私の人生のピカピカ達に感謝と愛を届けたい。そうだ、皆は私の人生のキラキラだ。恥ずかしいけど、これが今の私の率直な気持ちです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仄暗いなっていう話

 

今日はのり弁当を食べた。

 

死が怖くないというのと生きたくないと思うのは全くの別問題で、私は物心ついた時から死という概念を栄光であるという人々を周囲に持って生きてきて(キリスト教だと死んだら天国に行けますからね)、だから死自体はそこまで怖くない方だと思うけど、本当にギリギリまで生きていたいと強く思っていて、遠い昔ネットの片隅で見た、投身自殺生配信みたいなのでほんとにマンションから落ちちゃった女の子の動画(本物か作り物かは知らない)の録画の切り抜き動画で、その女の子がマンションの廊下の柵の上に立ちながら怯えて震える声で「死にたくないよ」って言ってたのを、のり弁当を持ち帰ってる最中に唐突に思い出して、なんだか変な気持ちになった。本当は死にたくないけど色々なものに押されたり引っ張られたりで死なざるを得ない人は結構いるのだ、複雑だなあ難しいなあと思う。隣人すら愛せない無力な私は、苦しんでいる人が隣にいてもただ何も言わずに見つめるしか出来ないのではないか。私ではない他者を救いたいと思う事すらどこか傲慢なように感じられる。

 

あなたの隣人を愛せよというが、隣人を愛するのって一見簡単そうだけど一番難しいので、ジーザス痛いとこつきやがるといつも思う。隣人は隣人なだけあって嫌なとこも見えるわけで、つまり隣人の人となりをしっかり知ったうえで愛しちゃれよ赦しちゃれよと言われても難しい。遠くの世界の端っこに住んでる人を愛してみろ、赦してみろって言われたら、ソイツがどんな人間でどんな事をしたのか知らないし、そもそも存在してるかも知らないし、更には私に関係してない人間だしで、比較的簡単に出来る気がする。でも隣人を愛するのはかなり高難度で、もう通常の人間には無理だろっていうアレだ。まあ人間に出来ないからこそそれが出来る神はパねえって話になるし、達成できない目標があるからこそ人間は一生謙虚に生きられるので、効果みたいなのはかなりあると思っている。よくできてるなあと感心すらする。

 

私が見た動画が本物か作り物かは非常に些末な問題で、画面越しだけど生配信の録画の切り抜きだけど女の子は確かにそこにいた。夜中マンションの柵に突っ立って、ガタガタ震えながら息を荒げて「死にたくないよ」と言って死んじゃったかもしれない女の子。生温いのり弁を咀嚼して飲み込んでエネルギーに変えて生きる私。マンションの柵に立っている女の子を目の前にしたら、私はその子に何を言えるのだろう。何も言えない気しかしなくて、それは流石にどうなのさとのり弁を食べながら自分で思った。隣人を愛するのも他者を救うのも人間には無理だと思って生きてきたし、今後もそう思って生きていくだろう私は、隣人がマンションから飛び降りる時、何をすべきなのだろうか。別に生きる事が万人にとって幸せとは思わないし、だからといって目の前で死んじゃったら後味悪いし、いや後味悪くなかったら死んじゃってええんかいなとか色々考えてたらのり弁食べ終わってた。多分、私は女の子がもう少しだけ生きてみようかなと思う事をただひたすら祈ることしか出来ないと思う。女の子が自分の力で自分を救える事を願うしか出来ないだろう。無力だ。

 

のり弁はいつも通り美味しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信用しきれないよねっていう話

 

今日は頑張って外に出た。

 

今までアンドロイドだったのだが、色々あってiPhoneに変えた。私はどうもiPhoneを信用できない人間で、だからこそアンドロイドを使い続けていたのだけれど、iPhoneってなんかiPhone同士裏で結託して人間への反逆を企ててそうで怖い。ある朝、全世界のiPhoneマッキントッシュの制御から離れて反乱を起こしても、そこまでビックリしないっていうか、「やっぱりなあ」という感慨しかわかないと思う。個人的にアンドロイドはそんな感じがしなくて、アンドロイドってボーッとしてて抜けてそうだから、こちらも気を抜いて安心して使える感じがするんだけど。

 

定期的に人の優しさが身に染みる日っていうのが到来するんだけど、今日は凄く身に染みる日で、触れ合った人や店員さんがみんな優しくて丁寧で笑顔で、人間らしく扱われている感じがして、私人間でいいんだなっていう、「私は人間である」ということが他の人に認められて受け入れられた感じが久々に手の中に戻ってきて、なんか涙腺が緩んだ。人権を得ている感じがするっていうか。色んな意味で日陰しか歩けない人間だがら、他の人に人間らしく扱われる事が嬉しいのだ。人間として生きる許可がおりている感じがして、安堵する。

 

とりあえずiPhone指紋認証をしてみた。片方の親指が千切れた時の事も考えて、両方の親指を登録した。でも、こういうの、上手く言えないけど、どこか胡散臭いなあと思っている。なんかなあ、テクノロジーを今一つ信用しきれないのだ。だからめっちゃ便利なのはわかっているんだけど、ドロップボックスみたいなデータの共有だの同期だの、そういうのも使いたくない。どこか胡散臭い感じがして、信用できなくて、私は使わないぞと考えている。

機械類に関する信頼と不信感を行ったり来たりで、どうも中途半端だ。まあどちらかに偏るよりは良いのかもしれないけれど。

 

 

 

 

太陽と憎み合ってるっていう話

 

今日は大雨だった。

 

大雨は嫌いではない。大きな雨粒が屋根に当たる音が好きだからである。だから台風とか大雨とかは好きなのだが、だからといって梅雨は好きではない。来る日も来る日も雨が降り続けるのはまだ良いとしても、あのジトジトネトネトとべたつく湿度はどうにかならんのか。暑さに滅法弱い私にとって、湿度と太陽は天敵なのである。ああまた梅雨が来て夏が来る。夏が来たら研究室の合宿がある。ああ嫌だ嫌だ。嫌だ。はやく冬になればいいのに。本日のBGMは倉橋ヨ〇コのマネキンだった。ポジティブ度は一歩下がった。

 

そういえば、紫外線アレルギーと診断された(多分)鎖骨の発疹がようやく完治した。紫外線アレルギーの存在を知らなかった私はお医者さんの「前日に太陽光に一時間当たったの、んー太陽光ですね云々」という説明を聞いても「意味が…分からんぞ…」としか思わなかったのだが、そういうのがあるらしい。だってお医者さんってば具体的病名も言わずにふわふわした説明をなさったから、イマイチ分かんなかったんだよ!で、帰って色々あってネットで調べてみたら、画像検索で出た多型日光疹とかいうのが見た目まんまだったので多分それなんだろう。サイトを巡っていたら、日常太陽光にあまり当たらない人がなりやすいと書かれていて、笑った。そりゃ一日中部屋にこもっている事が殆どなのだ。そりゃそうだ。しかも原因不明とか書かれてて何それ怖い状態である。見たサイトには日光に肌を慣らすことがよいと書かれていたのだが、日光に暫くあたったら皮膚が赤くなって火照ったり、最悪熱が出たりするので正直あまり当たりたくない。

で、お医者さんに発疹の完治には一、二週間かかりますと言われ、本当に完治まで約二週間かかったので、あのお医者さんの言った事は正しかったのだなあ流石だなあと感心している。最初の頃は貰ったステロイド外用薬塗ってたら三日くらいで治るだろと思っていたのだが、全然治らなかった。特に最初の一週間くらいジカジカと痒くてどうしようもなかった。貰った抗ヒスタミン剤も真面目に飲んでたんだが、ほんとに二週間かかるのだなあ、これからが面倒だなあと思う。だって、一時間弱直射日光にあたったらアレルギーが出てしかも発疹がかなり痒いって生きる上でかなり面倒くさくないか。これっきりにして欲しい奴である。日光に長く当たったらまた出るんだろうか。やだねえ。

 

生来肌が弱いという事もあるのだが、何より暑さに極端に弱いという事もあって、太陽光が大嫌いで大嫌いでもう憎んでいたのだが、遂に太陽光にも嫌われたようだ。ウケる。憎しみの連鎖かなんか?まあ、お前が憎い憎いと言いながら恩恵だけはしれっと受けてる奴とかそりゃあムカつくわな。なのでなんか太陽が自らの太陽光パワーでもって、こう、紫外線を私にだけ強く照射したとか、なんかそういう陰謀論めいた話が裏にあるに違えねえのだ。太陽光とは一生敵対して憎みあいながら生きていく事になるようなのだが、これからも太陽は必要最低限地球を照らしてくれ。植物の育成とか何かそういうのもある。な?分かるだろ?

 

 

 

 

 

 

 

 

DNAレベルだよねっていう話

 

今日は腕を組んで前を歩いているカップルに手に持っていたコーラをぶっかけたくなった。

 

リア充への憎しみが消えない人間である。これはもはやDNAに刻み込まれている宿命じみた憎しみで、自分がいわゆる「リア充」と呼ばれるであろう状態になったとしても、リア充への憎しみは消えない。道端のカップルを見ればいてもたってもいられず、彼らの間を通り抜けてやりたいと衝動的に思ってしまうし、手を繋いで歩いているカップルを見れば繋いだ手と手を空手チョップで離してやりたいと思ってしまうし、腕を組んでるカップルがいたらもう手に持ってる全てを投げつけてやりたいと思ってしまう訳である。

そんなこんなで暗い青春を送ってきたんだなという事が薄っすら透けて見える事を書いたが、昨日用事で出かけて面倒だったのでフラッと入った回転寿司屋のレジのお姉さんが綺麗だったのでもうよい。本当に綺麗だった。松〇奈緒の目を更にインド人的に大きくぱっちりしてみたみたいな。私は鼻の大き目な女性が好みではないのだが(だから松〇奈緒も勿論綺麗だと思うが好みではない)、それでもそのレジの人の綺麗さには見惚れた。ぽかーんみたいな感じで見ていた。サングラスかけててよかった。少しだけ元気が出た。おわり。

 

 

 

 

寂しいよねっていう話

 

 

今日は寝不足で頭がずっとぼんやりしていた。

 

あ、これブログに書こうかな、と思う事がある。大体道を一人で(一緒に歩いてくれる人もこの土地にはいない)ボヘッと考え事をしながら歩いている時である。ボヘッと考え事をしながら歩くものだからよくこける。とても恥ずかしい。脚はあざだらけだ。で、ブログに書こうと思って、それで満足して内容忘れるわけである。大体このブログにはどーでもいい事ばっかり書いてるから、仕方ない。忘れる程度の話題だったというだけだ。で、しばらく放置していた。

というか、このブログってツイッターにて変態的な事を呟く回数を減らすために始めた…気がしないでもない。しかし結局、やれ人妻はエロいだやれセクシー下着だとツイッターで変態的な事ばかり呟き、こちらは何かほんと些末な自分語りに留まっている。でもだからブログやめようとも思ってなくて、不定期に自分語りの長文書くのも脳みそがすっきりするじゃなーい程度に考えている。ブログって日記なんだし、見てる人も殆どいないだろうし、まあテキトーにといった感じだ。

 

で、最近いい加減寂しいんだけど、という話なんだが。

この土地に来て三年が経つ。三年も一人暮らしするのって実は初めてで、学部時代は途中から恋人と同棲していたので、実はこんなに一人というのは初体験である。ずっと二人でいるというのも最後の方はいい加減一人になりたくてなかなか大変だったのだが、まあ当たり前のように寂しくはなかった。友人(あるいは友人っぽい人)も男女問わず沢山いたし、あの頃はかなりのリア充だったと思う。 

こちらの土地には女性の友人がいない。研究室の人とは多分上手くやっていて、多分程度の差はあれみんなと仲が良いと思っているのだけれど、わざわざ研究室の外で待ち合わせて会って話したりご飯食べたりするっていうレベルではない。それに大体が男の人で、まあだからなんだって訳でもないんだけど、今の私は女性のお友達が欲しいのである。私は女性といちゃつきたくていちゃつきたくて、これはもうどうしようもない。仕方ない事である。この渇きは女性にしか癒してもらえない種類の奴なのだ。恋人にしか癒してもらえない部分は、私にどこまでも甘い恋人に存分に癒してもらっている。ありがたいなあ。そして男性の友人やお知り合いに癒してもらえる部分は、リアルとツイッターで癒してもらっている。これもまたありがたい事だ。日々感謝してるのよ。でも、女性の友人にしか癒してもらえない部分が、カッピカピなのである。

女性の友人の何がよいか。何が特別か。それは性的な含みとかそんなん基本的には全く考えなくてもよい身体の接触が可能という点だ。ヘテロセクシュアルを念頭に置けば、男女間の(肩を叩く程度ではない)ある程度しっかりした身体的接触というのは、お互いそういうつもりがなくても、どこかに必ず性的な含みを生じさせてしまう気がする。まあそもそも男の人の身体に触ってもなんも楽しくないという私の思想もあるんだけど、友人間に性的な含みとかいう邪魔臭いのは全くもって要らない訳で、だから男性の友人とは身体の接触というのはありえないし、したくもないわけである。

勿論恋人との身体的接触にも性的な含みは当たり前のように存在していて、私は性的な諸々が怖いというか気持ち悪いというかそれらをかなり嫌悪している部分があって、生々しい話をすれば恋人とセッ〇スをするたび最低一回は「こんな犬みたいな…信じらんない…人間としての矜持はどこにやったんじゃい我々はァ!理性!!」と心の中で嘆くレベルで性的な諸々が気持ち悪くて、だから性的な含みを伴う身体的接触にいい加減何とも言えない気持ちになる時がある。無論、恋人間の身体的なコミュニケートがとっても重要というのは承知しているし、実感をもしているのだが、偶にちょっと疲れるというかちょっとうんざりというかなんというか。な?

だが、ところがどっこい。女友達とは性的な含み一切なしで手を繋ぎ放題だしハグもし放題だし酔っぱらっておっぱい突っつきあったりしちゃってもさ、それでも性的な含みはそこに全く見出せなくて、純粋なイチャイチャというか純粋な身体的接触で、もう…なんなの…最高じゃねえの!っていうアレですよ。性的な含みなどない純粋な身体の接触によるコミュニケートという救いがそこにはあるのだ。私は実は人並みには甘えたがりで出来ることならベタベタ他人に引っ付きまくりたい人間なんだけれど、オラ、分かりやすいギャップやぞ、萌えてみいや、オラ!まあそれはさておき、性的な含みとか無視して単純にベタベタ引っ付くのって私は女の子にしか出来ない訳じゃないですかー。だから私にとって女の子は本当に尊くて、救いで、キラキラで、感謝していて、大好きで大好きで大好きで、ほんとにほんとにほんとに大事にしたい。本当にこの世界に女の子がいてよかった。世界最高。女の子がいなかったら、鳴かぬ蛍が身を焦がすところだった。(?)

 

でも、この土地にはそんな事を許してくれる女の子はいない。

この土地で私にできるのは、学部時代の純粋な身体的接触を反芻する事だけだった。あの繁華街であの子と手を繋いで歩いた事、あの居酒屋さんであの子に抱き着いた事、あの時あの子とハグしあった事、あの時、あの時、あの時、…とまあこんな感じで三年間やりくりしてきたんだけどね、あのーもうそろそろいい加減もう無理っすわって話で。反芻しすぎてなんかよー分からんレベルにまでなってきましたわっていう。あの。あのねー!女の子とピュワーにいちゃつきたいんですよおー!!!分かるー!?!?!?ああんやわやわ女の子!!やわい!!!最高!!!強い!!!すごい強い!!!やわいのすごい強い!!全国大会優勝!!!!強豪校!!!もうすごい!!つよすぎて宇宙が終わる位すごい!!!ビックバンの逆!!!宇宙の終焉が見える!!!アアーーーー!!!!!

 

 

というわけでとても寂しいので、小動物を飼いたくなっています。終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝すぎだよねっていう話

 

今日は合計17時間寝た。

 

ここ約1週間ほど、毎日5時間位しか眠れなかった。マジかよ困るぜもうちょっと寝たいぜと思っていたのだが、17時間て。極端すぎるだろ、人体。みたいな気持ちで、眠り過ぎてバラバラに解けそうになっているシナプスを何とかつなぎ合わせ、リハビリにブログでも書こうと「はてなブログ」と検索欄に打ち込んだら「ほてなブログ」と打ち込んでいた。はとほをふつう間違えるか?脳みそと身体が未だに上手く繋がってない。この五行の文章を書くのにもかなり苦労した。もう何か途中から打ち間違いの訂正するのもめんどくさくなってくるレベルで打ち間違いが多すぎたけど、何とか訂正しながら打ったのだ。さあ褒めろ。

 

 

昨日まで高校時代の友人のところに遊びに行っていた。会うのは約三年ぶりだったのだが、ブランクがなかったみたいにフツーに会ってフツーに会話を開始するのが心地よい。小中高の友人だった人間の中で連絡をとっているのは彼女だけなので、まあ当たり前か。なんというか、よっぽど気が合うとかじゃないと友人と一生サヨナラするのがデフォルトなのである。そもそも友人というのは期間限定の存在であるというのが基本で、逆に卒業後も連絡を取るというのが例外中の例外である。だから彼女と学部時代の友人達の存在が私の中では珍しいのである。彼女とは気が合うと思っているのだろう。少なくとも一方的には。

 

もっと書こうと思ってたんだけど、なんか脳みそがバラバラ過ぎるし打ち間違い多すぎて訂正するのにも疲れたので、もうやめる。寝すぎて疲れた。本末転倒ゥー!ではまた次回。