明日も生きたいと思いたいよねっていう話

 

今日も何とか生きた。

 

 

絶望の果てに生きている。アスファルトの道を歩いていても、大学で授業を受けていても、家に帰って論文を目の前に広げても、絶望は常に私を包み込んでそこにある。ぬかるんだ絶望に常に浸っているせいで、心はふやふやにふやけて、日常の全てが心に突き刺さる。普段ならどうとでもない事で心は常に血を流して、生傷と瘡蓋に塗れた醜悪な見た目になってしまった。それでも何とかツイッターで前みたいな事やポジティブになれそうな事を呟いてみたりして日常に戻ろうと努力しているし、人目のあるところに行けばそこまで落ち込んでいる姿を見せる訳にもいかず、以前の私に戻る事が出来る。でも一人になれば結局元の木阿弥で、四方を絶望に囲まれて、絶望のぬかるみと自分の血液の混じった液体に溺れて碌に息も出来ない夜を過ごす。限界が来る前に、この場で思い切り心情を吐露する事にした。

 

私の女神が結婚して、女神から人間になると知った。もうだめだなあ生きてられないなあと思って、もうすぐ一週間が経つ。世界はまだここにあって、人は普通に生きていて、今日道ですれ違った人々は、恐らく世界が神に見捨てられてしまった事にすら気付いていないだろう。この世界は最も美しいものに見捨てられてしまったという事を、少なくとも私は知っている。この先に待っているのは荒廃と絶望だけだ。公園で遊んでいる子供達は、この先に美しさが待っていない事を知らずに大人になるのだろうか。女の膨らんだ腹の中で眠る胎児は、既に美しさが去ってしまった世界に産まれ落とされて産声を上げるのだろうか。もう世界は終焉を迎えたというのに。だって、女神が人間になっちゃったら、この世界からキラキラ光る女神が、美しさそのものだった女神がいなくなっちゃったら、この世界なんて廃墟のギュウギュウに詰まっている絶望の塊に過ぎないじゃないか。天の川銀河の端っこにポツンと置かれた絶望のどん詰まりに私は生きられない。終焉を迎えたモノクロの世界では生きられない。そんなところじゃ息が出来ない。絶望に溺れて、更に息は出来なくなる。絶望に浸かってふやけすぎた身体が遂には融けだして、更に更に息をするのが困難になる。この約一週間、四六時中窒息しかけていて死にそうで、周囲の人間が普通に息をして生きているのが信じられなかった。皆偽物なんじゃないだろうかと思っていた。美しさの去ってしまった世界でなんで生きられるのか、笑えるのか、走れるのか、哲学の話が出来るのか、本気で意味が分からなくなった。美しさのない世界で何をしても全部無意味じゃないかとすら思わざるを得なくて、辛くて辛くて堪らなかった。まだこの思考から抜け出せていなくて、もしかしたら一生引き摺るかも知れないけど、もうどうでもいいやという気持ちもあるし、もう生きるので精一杯だし、もうなんか全部どうなってもいいや勝手にしてくれと思っている。無気力も甚だしい。

それでも、そんな終わった世界の只中にあっても、辛いので、生きている。私の女神の最後の賜物である圧倒的な絶望は、私の全てをふやかして遂には融かしてしまったのだけれども、それでも何とか一週間生きた。死んでしまったら女神に与えられた絶望すら失くしてしまう。それは私と女神が信仰で(一方的にでも)繋がっていた事を示す唯一残されている証拠で、それを失ってしまう訳にはいかないのだ。絶望で辛いからこそそれを感じるために生きねばならなくて、生きる気力すら溶かされて、TVを、ネットを、外の景色を、空の青みを見るだけでそこにある全てに傷付いてしまう程に私には何も残っていないのだけれど、それでも生きる事はある種の喜びで、女神が私に残していった絶望と辛さは女神の遺薫だから、それに包まれて生きている今は、絶望であると同時に希望にもなっている。絶望に生きる気力すら貪り食われながら、絶望に全てを貪り食われるために何とか生きる気力を奮い立たせて生きている。よく分からないけれど、今日生きたので、明日も生きたい。明日も生きて、明後日も生きたい。世界の全部が辛すぎて心に刺さって息をするだけで傷付いて泣くしか出来ないけれど、多分死ぬまで生きて、女神さまの下さった絶望を感じてそれに傷付いて血を流すために生きれるだけ生きて、そんで死にたい。

そうして明日も「生きたい」と思える事をただ願っている。