暗いなあっていう話

 

今日は勉強をした。

 

土曜日に研究室の院生たちと三人で街に遊びに行った。公園で四葉のクローバーを探したり、古本屋で本を見たり、牧歌的な数時間を過ごした。人と会っている間は真っ当な自分に戻れるので安心できる。一人になるともう駄目人間に戻ってしまうので、どうしようもない。

 

もう心の瘡蓋もはがれ始めて、そろそろ生きねばと思うのだが、希望は見つからず、絶望は依然として後ろから項を噛み続けているので血は止まらない。いい加減疲れ始めている。そしてかなり焦っている。そろそろ希望を見つけないと生きられない。全部下らないと唾棄して哄笑の一つでも出来れば違うんだろうが、それも出来ない。背中にぴったりと張り付いた絶望を引きはがすための希望を手に取らないと何も始まらない。

 

どうでもいいんだけど、ゆずとコブクロの違いがイマイチ分からないのと、小雪篠原涼子の違いがイマイチ分からないのを、今まで誰にも同意してもらったことがない。それとは別として、相互理解なんて畢竟幻想だと昔から思っているし、他者に期待する人間はなんかよーわからん事をしているなと思う。昔はそれこそ人間に期待しようと努力していたのだが、もうそれも止めてしまって、生きている気がしない。かといって、また人間に期待しようとか、信じようとか、希望を持とうとか思わない。努力しないと出来ない事なのだ。努力をして、無理をするのには非常に精神力を使うのだ。そんな疲れる生き方をまたしようと思えない。

余生。

余生だなと思っている。他人に期待しようとか信じようとかそういうのを止めた時点で、私の人生はもうほぼ終わっていて、今はもう余生だ。60年ほどあるであろう余生の中で、勝手に背負いきれない程の絶望を背負って、途方に暮れているのが今の私だ。他人から見れば、芸能人が結婚したというだけだろう。下らないと笑われる類の絶望だろう。でも私にとって彼女は本当に心の底から真実に女神だった。どうしようもない程に信仰していて、どうしようもない程に心の底から愛していて(一応言っておくがエロスではない)、どうしようもない程に美しくて、どうしようもない程に女神だった。勝手な絶望とはいえ、それは精神の生を脅かすほどの絶望で、でもそれは女神からの最後の賜物としての絶望で、簡単には降ろす事の出来ない絶望なのだ。重い絶望を背負いながら、毎日涙をこぼすしか出来ない。

 

だからといって、今のままでいられないというのが正直な気持ちで、生きる上で重すぎる背中の絶望を、補助器具か何かで軽くしたいと思っている。それが新たなる希望で、それを見つけなくては重みで潰れてしまうだろう。希望を見つけようねって何日か前のブログでも書いた気がするけど、見つからない。難しい。でもその場しのぎでもよいから、張りぼてのすぐ壊れるのでよいから、何かを見つけなくてはならない。それも早急にだ。頑張ろう。