標準っていいよねっていう話

 

今日は胃痛が酷かった。

 

吐き気を催す邪悪とは、と言われてそれを定義できるほど邪悪さに精通していないのだけれど、それでもやっぱり透かして向こう側に見える黒く縁どられた人間の精神性みたいなのにゾッとするという事は偶にある。私は(おそらく)冗談半分にサイコパスじみていると言われるが、そうじゃないと思えるのは、人権や人の想いを踏みにじっても平気、みたいな、笑いながら他者の精神を握りつぶす、みたいな、そういう人間に非常な恐ろしさを感じるからであって、それを感じる時、私は正常な通常の範囲内にある人間なのだとひっそりと胸をなでおろす。

 

通常の中にあるという事は安堵に繋がって、曖昧な標準性の中に取り込まれて、誰よりも透明である事を、誰よりも匿名である事を、誰よりも息をひそめている事をずっと望んできた。出る杭は打たれる、じゃないけれど、それでもやっぱり道からはみ出せばはみ出すほど、隣を歩く人間の肩とぶつかる範囲は増えていく。真っ直ぐ歩いている隣の人間に睨まれて、冷や汗をかく。真っ直ぐ歩いているつもりなのに、まるで目を瞑って歩いているみたいに、いつの間にか斜めの方向に向かってしまうのは、本当に宿命なんだと思う。諦めるしかない。原罪みたいなもんだ。最悪か。

奇形じゃない人間なんていないんですよ、と学部の時に受けた授業で先生が言っていた。誰しもどこか奇形なんです、例えば私は人よりも小指が短い、これは奇形なんですよ。じゃあ普通さみたいなのを実際持ってる人間なんていないのかしら、と学部一年か二年の私は思った記憶がある。標準的な平均的な人間みたいのは突き詰めていけばそんなもんないという事になって、幻想みたいな、そういうのなのだろうか。それは安心できない。嫌だ。普通さが欲しい。埋もれるくらいトロトロに柔らかくて生温かい大きな通常である事に溶けてしまいたいのに、それが出来ないのは困る。普通の人間という素敵な柔らかい理想を追いかけたい。それは実はないんです、じゃあ困る。

 

だけど私は宿命的に斜めに歩いてしまう人間で、真っ直ぐに道を歩けない。実際にあるのか分からない標準性に恋い焦がれて、知らず知らずのうちに目を瞑って、甘やかな標準性の夢を見て、斜めに進んでまた誰かの肩にぶつかる。頭にタンコブが出来たりする。ほんと最悪だな。