これは私ですか?(2期)

私ではないだろうか

普通さとキラキラと決然と生きるという事について

 

 

今日も暑い。

 

 

決然と生きましょう、と東京で会ったマブダチの人は言った。結局三日連続で行った古びた喫茶店で、或いはどこかの居酒屋で、或いは炎天下の中道を歩いていた時に。決然、決然、そうですね、それは重要ですね、と言いつつ、決然と生きるというその内実について、この時点では実はよく分かっていなかった。ごめんなさい。許して。

 

東京に行って、マブダチの人達、お友達の人達、お知り合いの人達、お名前だけ存じ上げていた人達、存在する事を知らなかった人達に会った。全ての人が寛容で、存在を認められて、存在することを許されている感じがした。おかしいな、と思った。少しおかしい。いやかなりおかしい。確実に間違っていると思った。そう思う一方で、非常に居心地がよかった。救済すら感じた。心の奥深くから本当に感動した。奇妙だった。

こちらに帰ってきて一週間、ああ、あの感覚が人権を得ているという感覚なのだなと思った。別にこちらで人間扱いされていないという訳ではない。むしろ周囲の親しい人々には大事に大事に本当に大事にされていると思う。何だろうか、異物としてではなく世界の一部としてごく当たり前に受容されたとでも言えばよいのか。東京では私の「普通じゃなさ」が普通の事として当たり前のように受容されていた。「普通じゃない」が普通だった。「普通じゃない」は普通じゃないのが当たり前で、だから標準性にあこがれて道を踏み外さないように頑張って歩いているつもりなのに、結局斜めに向かって歩いてしまって人とぶつかり冷や汗をかいてきたのだが、あの場では斜めに歩いていても「斜めに歩く人なんだなあ。そっかー、いいじゃん」で完結している気がした。ぶつかっても笑ってくれていた。今までの人生では、「斜めに歩…へえ(苦笑)」みたいな、「いや面白いよね(苦笑)」みたいな、引き気味の反応で、いや別にその反応に傷付くなんて事はなくって、むしろその反応って当たり前だとも思うんですけど、やっぱりそうだよねっていう、やっぱり「普通じゃない」は普通じゃない。普通じゃないのだ。トートロジーか。

私にとって「私は普通ではない」という命題は呪縛だった。ずっと普通になりたかった。平凡でもなんでもいいから普通の反応をするずれてない普通の人になりたかった。でも普通になれない。多分根本が普通じゃないから普通にはなれない。上っ面では普通になれるけど根本は普通じゃない。ずっと普通じゃない。物心ついた頃から変わってると周囲の人々に言われ続けて、劣等感を抱いてきた。宗教も普通じゃない。皆キリスト教徒じゃないから、初詣にも行くし占いだってするし墓参りに行ってお線香を刺したりだって、なんだって出来る。小中学生の頃、日曜日遊ぼうと言われてもその普通じゃなさに劣等感を抱いて、日曜日は家族みんなで買い物に行くからと友人に嘘を吐き続けていた。多分嘘だってばれていた。それでも動悸を覚えながら嘘を吐き続けた。辛かった。身体も人より弱くて普通じゃない。昔に比べたら強くなってきたけれどそれでもやや頻繁に体調を崩して、布団にもぐって劣等感の海にダイブする。心身共に普通じゃないのが私にとっての普通。私にとっての普通は普通じゃない。つまり私は普通じゃない。普通じゃない。変わってる。普通じゃない。変な人。普通じゃない。呪いかよ。みたいな。標準性という呪い。普通のゲシュタルト崩壊。普通って何だ。皆の普通が分からない。普通。標準性。普通。ふつう、ふつう、ふつう。狂ってる。本当に狂ってる。

 

 

「私は普通ではない」という実は真偽の定まっていない命題に勝手に劣等感を覚えるという謎サイクルに乗っかってずっと生きてきた。いや多分真だと思うけど。ともかく、だから決然と生きるなんて、そんなの考えた事もなかった。私が決定する事なんて、考える事なんて、普通じゃないから禄でもないと諦めて、途中までは自分で決定しても、最終的には結局他者の大いなる決定に寄りかかって生きようとしていたのだと気付いた。普通じゃないから、普通の人が作り出す流れに寄りかかって生きようとしていた。だって私は普通じゃないからそれがベターに決まってるんだと無意識に思っていた。これは自分が誰かを傷付けるという事を避けて、それなら私が諦めて他者に従おうという生き方だ。クズみたいな生き方だ。責任を他者に擦り付けようとする生き方だ。最高に卑怯な生き方だ。そもそも生きてない。私は自分の人生を生きていないじゃないか。

 

決然と生きる。

 

それはきっと自分からリスクを受け入れてでも自分の生きたい人生を生きようという覚悟だ。普通じゃなさを堂々と普通じゃなさとして受け入れて、何だか分からない「普通」とぶつかって血を流してでも私として生きようという戦いの覚悟だ。それが私にとっての決然と生きるという事の意味だ。ようやく分かった。マブダチの人が言っていた意味がようやく分かった。一週間以上経って、ようやく。もっと言えば、四半世紀以上生きてきて、ようやく「自分の人生を生きる」という言明の意味が分かった。そうか、そういう意味だったのか。目から鱗だわーみたいな気持ちでいる。勿論これは「普通」とわざとぶつかって、普通の人を傷付ける覚悟ではない。ぶつかった時に、過剰に卑屈にならないで、私はこういう人間でこういう事を考えているの、と後ろめたさなく堂々と言えるようになろうという覚悟だ。実際普通なのかも分からない「普通さ」に勝手に傷付くのも、ボロボロに傷付けられるのも、やーめた、という気持ちだ。今、凄く心が軽い。どこにでも飛んでいけそうだ。いっちょイデア界行くか。

 

東京に行かなかったら分からなかった。東京で様々な人達に会わなかったら分からなかった。きっとズルズルと他者に責任を押し付けて生きていっていた。決然と生きたいと思う事は出来なかった。私の人生にも尊さがあるという事に気付かなかった。普通じゃなさをそのまま普通の事として受け入れてくれる、奇妙だけれど変だけれど救済すら感じた感動的なあの場を体験しなかったら、普通という呪縛を取り払って普通じゃないまま生きる事が出来るという可能性にすら気付かなかった。別に普通じゃなくていいじゃんと、いやいやそのままでいいじゃんと、気を遣うでもなくごく当たり前の事を言うように言ってくれて、笑ってくれる人々がいなかったら本当に分からなかった。涙が出るくらいの救いを感じたのだ。本当に。本当に本当に、本当に私は感動したのだ。真正に、まさに、それは救済だった。その言葉を発した人々は軽い気持ちで言ったのだと思うけれど、私にとっては、ピカピカで、キラキラで、本当に眩い宝石みたいな言葉だった。重くてごめんなさいね。でも本当なんですよ、許せ。

 

今まで人間が人間を救済する事は不可能だと思って諦めて生きてきたのに、結局私は人間の言葉に救済された。人間の持つ寛容さに救済された。人間って凄いんだと思った。ほんの些細な事で他人をここまで救えるんだと驚いた。だからこその人類愛。人間にもっと希望を持ってもよいのかもしれないとすら思えた。人間種を例化している存在者の尊さと彼らの持つキラキラに、もっと寄りかかってもよいのかもしれないと思ったのだ。人類への感謝と愛おしさが湧き出てきた。ありがとうございますって、大好きです愛してますって、周囲のお世話になってる人達、遠くのマブダチの人達、遠くの近くのお友達、遠くの近くの知り合いの人達全員に言いたい。大声で言いたい。私の人生のピカピカ達に感謝と愛を届けたい。そうだ、皆は私の人生のキラキラだ。恥ずかしいけど、これが今の私の率直な気持ちです。