憎悪と復讐と怒りとそして最後に希望について

 

 

今日は家でもぞもぞ蠢いていた。

 

 

ここ最近色々とあったので、過去のよくない記憶が引きずり出され、異様に憂鬱だった。一昨日は特に最悪だった。男性が怖くなる。嫌いになる。また後退してしまった。よくない。でも希望はある。だから前進できる。また生きていける。

よくない記憶。色々あったのだ。魂が損なわれた事や、傷付けられた事や、単純に怖かった事などが、色々。そりゃあ26年間生きていたら色々あるわな。

 

普段性別なんて意識しない。大多数の人はそうだろう。Aくんという友達はAくんという人間、Bさんという先輩はBさんという人間、C先生という先生はC先生という人間、みたいに、そういう風にしか人を見ていない。普通だ。でも、ごくごくまれに男性に対して「ああ、そういえばこの人は男性なんだな」と思う時、途端に背後に暴力の匂いと性の匂いが見えるようになってしまって、気持ち悪い、生臭い、ぬめぬめした何かが見えるようで、認識が混乱する。軽い吐き気を覚える。ある筈のない幻覚だと思っても、どうしても見えてしまう。別にそれが自分に向けられているかとかそういう事はどうでもよくて、男性であるという時点で反射的に恐怖を覚えてしまう。周囲の普通の男性方のおかげで今ではかなり薄れたけれど、最初に刷り込まれたのが恐怖と嫌悪だったせいで、反射的なそれはいまだに治らない。人生は一進一退で、周囲の男性達を見て「そうだよね。普通の、まともな人が殆どやんね」と男性への恐怖の克服のために前進すると、どこかで後退させる出来事が起こる。例えば道端で、例えば学会で、例えば飲み会で、例えばバイト先で。他の人からみればおそらく些細な言葉や些細な行為で簡単に後退してしまう。正直自分はそういったものにセンシティブすぎると思っているけれど、センシティブになるにも理由はある。根源はある。

元彼となかなか別れられなかったのも、それが原因の一つで、私は男性が怖いので、そもそも男性に絶対に逆らえない。プラスで物にあたる人間だったので恐怖に拍車がかかって、笑うしか出来なかった。自分の人生を生きるために自分なりに頑張って別れて、恋人のいない人間になって、恋人欲しいと連呼しながらも、多分このままじゃずっと出来ないか、またよく分からん人に引っかかるだろうなあとずっと思っていた。怖いままでは、多分誰と付き合っても駄目だろう。結果怯える事になる。元の木阿弥だ。

女性が救いになるのも、結局男性が怖いからだ。女性が好きなのは、男性が嫌いだからだ。憎いからだ。女性を見ておけば、暴力の影という幻覚を、見なくて済むからだ。

 

これさえ解決できれば私は完全に自由だ、という問題が、上記のやつみたいなので、これについて考えるには根本的な原因について考えないといけなくて、ただ、なんというか、そもそもそれは思い出したくもない出来事だったし、正直どう扱ってよいのか分からないものだしで、その出来事をわざと軽い出来事のように扱ってみたり、重い出来事のように扱ってみたり、試行錯誤しても、それでもどうしようもなく、手持無沙汰だった。で、放置してた。いつか直視できる日も来るだろう、と。んで、ついに来た。怒りの日の到来だ。

男性には絶対に勝てないという気持ちが根底にあり、それを取り去る事はもう出来ないだろうと思っていた。暴力を受けた時、私は縮こまるか笑う事しか出来なかった。これ以上は傷付けないで下さいと阿る事しか出来なかった。バカにしたような嘲笑含みの目を見ないふりをして笑いながら地面を見つめるしか出来なかった。でも、昨日見ず知らずの男に心ない言葉を吐かれて、憂鬱に拍車がかかった時、今の自分はその暴力を本気で純度100%で悔しいと思えて、怒りを感じていると気付いた。その気付きを得た時、あ、私はきっと大丈夫だと思えた。辛いけれど憂鬱だけれど大丈夫だと思った。自責の念が全くない状態で、悔しいと思えるようになっただけ、救いはある。怒りを感じることが出来るようになっただけ、強くなった。そう思えるようになったのは、きっと周りの男女含めた大事な友人や知り合いの人達のおかげだ。心からのありがとうを伝えたい。私心から怒ってるな、怒れてるな、と気付いて、一縷の望みがあるのだと思えた。他人の自分勝手な欲望に巻き込まれ、決定的にではないにしろ酷く損なわれた昔の自分を抱きしめてあげられるのは、私しかいない。そろそろ昔の自分を見ない振りをやめて、辛かったね苦しかったね、そして無視しててごめんねと言わなくてはならないと思った。昔の自分の分も、今の怒る事の出来る私が怒らないといけないと思った。そうじゃないと昔の私も、そして今の私も救われない。遂に思えた。サイコー。憂鬱も悪くない。一昨日のクズみたいなおっさんありがとう。二度と女性にああいう事言うんじゃねえぞ。

私は悪くなかったのだ。なんにも悪くない。そういう意味で自分の女性性を呪う必要はなかったのだ。怒って当然なのだ。そうだ、あの日の私は100%悪くない。だってなんにもしてない。普通に生きてただけじゃん。ようやくそう思える日が来たのだと思うと本気で感慨深い。涙ぐむ程度には感慨深い。感動的だ。そう思いたくても、過去の自分を呪うばかりでずっとそう思えなかった。私があの日外に出なかったら、私があの場所にいなかったら、そもそも私が女じゃなかったら、そう思っては謎の自責の念に駆られていたつい先日までの私が、本当に馬鹿みたいだと思える。過去の自分を救えるのは自分だけだ。怒っていいのだ。小さなころの私が戦えなかった分、怒れなかった分、今の私は怒りと共に暴力と戦う決意をしなくてはならないのだ。それがきっと復讐になる。私を傷付けてきた男達への、なにより名前も知らないあの男への容赦ない復讐になる。

でも、多分、15年以上にわたって蓄積されてきた恐怖と嫌悪と憎しみは簡単に消えないだろう。もしまた何かが起こったら、バカみたいにセンシティブな私は傷付いて、ここ数日みたいに一進一退で、怒って、悲しんで、無力感に苛まれ、そして今までのように周りの人に慰められ、励まされながら生きる事になるだろう。これだけ見たら今までとあまり変わらないかもしれないけれど、でも、心から悔しくて怒れた事は、私にとって凄まじい希望になる。怒るというのは、それが不当であったと理解したという事で、そして自分が悪かったわけではないと理解したという事だ。その理解が自分の中にあるという事が分かっただけで、私は明日に希望をもって生きられるから、遠い未来にも希望を持って生きられる。その希望を灯りにして、怒るべき事にきちん怒ろうとか、暴力と戦える人間になろうとか、そうしていつかは素敵な恋人が出来るかもしれないとか、そういう今まで持つ事を諦めていた類の希望を持つ事が出来るから、これは紛れもない救いだ。今まで色々辛い事もあったけど、頑張って生きてきてよかった。オプティミスティックに、ポジティブに、決然と生きようという姿勢は多分、間違ってなかった。

救いを前に生きてきてよかったと心から思える私は、きっと幸福だ。