「○○さんが繊細な心の持ち主だっていうのは前から分かっていたけれど、」 

繊細である/繊細ではないという二項対立を想定した時、自分が圧倒的に前者に属する人間だという自覚はあったのだが、それを隠して生きないと生きていけないと何故か強く信じていて、自分なりには何とか隠してあんまり傷付きませんみたいな顔をして生きてるつもりだったのに、それを特に隠そうとしていた人間に結局隠せてなかったという事が判明し、マジかよショックだわめっちゃ恥ずかしいわみたいな気持ちで昨日と今日を過ごした。でもよく考えれば、隠せるのは自覚的な部分だけであって無自覚な部分や仕草や表情は私には隠せないのだし、ふと瞬間だけ顔に現れる隙間みたいな影や傷付きですら人間は認識できるのだから、気付かれるのが当たり前だ。世界の白と黒が反転し続け、それが余りにも早い頻度で繰り返されるものだから、次第にそれ等は交じり合って、あった筈の真っ直ぐな境界線がぼやけた灰色に近づいていく。美しく2つに分かれていた世界はグラデーションで繋がって、醜く交じり合い、最後には1つになるのか、或いはまた2つに戻るのか。考えたってどうにもならないステージにいる。プロですら予測不可能な明日を私が分かる筈もない。

それを的確に表現するには言葉が足りない。いつも言葉は周囲に溢れて零れ落ちるくらいなのに、いざという時に限って全く足りていない事が判明する。変な話だ。上手く言葉にできない事については「すみません、ちょっと言いたくありません」と言った。目の前に座っていた先生は煙草を吸いながら苦笑いした。言葉にしてもそれは的確からは程遠い混乱した言葉になってしまう。実際精神科医に話すのは、文脈と整合性がすぐに吹き飛ばされてしまうような、秩序と混沌、意味と無意味、肯定と否定、そのような決して交じり合わない筈の二項対立が複雑に絡み合ってまぐわったような、そんな言葉の羅列だ。毎回医者に「上手く話せなくてすみません」と謝るレベルなのだ。その羅列に変に巻き込んで先生まで混乱させたくないという私なりの思いやりだったのだけど、十中八九その思いやりは伝わっていないだろう。

ボソボソと30分程度喋った。「この人も小声でボソボソ喋る事があるのだな」と思った。珍しく先生はほぼほぼ無表情で、ボソボソ小声で喋っているからか声も平板で、でも端々でかなり気を使ってくれていた。

事情を(恐らく大体)察してくれているであろう先輩は、あえてそれに触れないで以前のようにいつも通り接してくれた。正直それでかなり安心した。事情を知らない後輩達はまあまあ痩せてしまった私を真面目に心配していた。素面では持たないなと思って昼間から酒を飲む私を見て、同輩は「お、ガソリン補給すか」と笑い飛ばして終わった。卒業する後輩には「愛おしい」と言われ、お互いに「愛だね」「愛ですね」と言い合った。彼女との関係は愛という言葉で表現可能であると確認しあって、私は指でハートを作った。

わざわざ時間をとって会話の練習をしてくれた遠くのマブダチの人やそのほかの人達も含めて、私の周囲の人間みんな善良すぎかよ、と思って昨日歩いて家に帰りながらほんのちょっとだけ泣いた。涙ぐんだレベルだから周囲にはきっとばれていない。

先月した身辺整理は全部無駄になった。消したものや捨てたものは戻らないけれど、ツイッターもブログも再開して、部屋もまた汚くなっていく。掃除をしないといけないなあと思ったので、とりあえず床に散らばっていた研究書を棚にしまった。