禄に眠れていないから、表層は眠くて柔いのに芯の部分が硬く覚醒している。何故か明け方パッチリと目覚めてしまった。夢見は悪くなかったと思う。海の底で烏賊が暴れているのかもしれない。海底に張り巡らされたケーブルを齧っているのかもしれない。見えない所で烏賊が起こした微かな漣を感じて、私はふと起きたのかもしれない。

表層の柔らかさのせいで、ぼんやりと覚束ない。頭の中にある思考システムがまだ全然温まっていない。これでは勉強出来る気もしないし、今日は昼前に出かけないといけないので、煙草を咥えながら朝っぱらからブログを書いている。

フィクションとノンフィクションの境目はかっちりとしている。これが現実でこれが虚構。これが本当でこれが嘘。これが実際あった事でこれが実際なかった事。その区別はしっかりと付く。当たり前だ。しかし感じる事というのは、確実な世界に属する、ソリッドでリアルな事象ばかりではない。リアルにある具体的対象を見る時、或いはリアルに起こった現象を見る時、その裏に潜む幾万もの手の蠢きや息遣い、存在の訴えを感じる。勿論、実際に手が見えているとか、声が聞こえるとかではない。ただ、それ等が存在しているという息吹を感じる。感じる、というのもずれた表現かも知れない。ただそれ等が存在しているという事が分かる、と言った方がより近いのかもしれない。

私の目の前にあるサングラスは具体的対象としてのサングラスであるけれども、裏には別の幾多もの手が潜んでいる。それは確実にサングラスであるけれども、同時にサングラスだけではない。サングラスという名付けを受けた具体的対象、それが例化している種、例示化している性質、それ以上の何かが潜み、それぞれが存在しているのだと訴えかける。今ではもう分らなくなってしまった「見ただけで目の前の女性が処女か非処女かが分かる」というものその類の感覚だったのだと思う。果実が熟れ腐りかけ始める時のような、生臭いがしかし同時にどこまでも芳しい、潤んだ匂いが見える(実際に見える訳ではないし匂いがする訳でもない)としか言いようのないあの感覚。

まあ勿論普段の生活で上記のような事を言えば、或いは意識し続ければ、頭がおかしいと思われる、或いは頭が本格的におかしくなるので、普段はサングラスはサングラス以上の何物でもない確固たるサングラスであると思ってそういう類の事をあえて気にせず生活しているのだが、本来的には私に向かって(思うのだが、私だけではなくおそらく万人に向かって)あらゆる事物から無限の手が伸びている。手を掴むか掴まないかはその人次第なのだ。

なんというか、事物がこの世界で実際に表現している以上の何かを受け取ってしまうみたいな、そういう奇妙なある種の感受性のようなものを持っている人間は少なくないのではないかと思っていて、インプットされる情報量が多分通常の人よりも過分で過多である、そういう人って結構いる気がする。ただ、その情報の出所は判然としなくて、私が勝手に余計なものを組み立ててそれを感じているのか、或いは本当に事物から手が伸びているのかどうかというのは謎である。感じる側の人間からすれば圧倒的に後者なのだが、前者の可能性は全然あるだろう。何せ想像力が豊かな個体なのだ。その想像力を培ったのが、事物から伸びる手という可能性もあるけど。