こんなクソみたいなグチャグチャの人生でも、怖い事嫌な事絶望な事ばっかりじゃなくて嬉しい事だってちゃんと用意されてて、嬉しい事を迎えに行くんだって思って生きてる限りきっと大丈夫だって分かっている。知ってる。

嬉しかったのは、カウンセリングが一週間に一回じゃなくて近いうちにもしかしたら二週間に一回になるかも知れない事。 先生に冗談じゃなく助けてもらったから、毎週先生が「自分を傷付けないと約束して欲しい」って目を見て言ってくれてなかったら、先生がその約束を毎週根気強く一方的に取り付けてくれなかったら、私は多分二月の終わりには身辺整理の延長線上に発作的にそのまま突っ込んでいってた。あの頃は混乱で頭が爆発しててだから頭がおかしくて、まあ今だって色んな意味でおかしいんだけど、今よりもっともっとおかしくて、でも外用の鎧すらも付けられなくなったグチャグチャの醜い私を真っ直ぐに見て、私の生をとどめようとしてくれる人がたった一人でもいたから、最後の力で私はその約束を頑なに守ろうと思えた。約束で縛られないとどっかに飛んでいきそうだった頭のおかしさを抱えた私の生を、仕事だからとはいえ真っ直ぐ最大限に尊重してくれた先生に恩返ししたくて、クライアントである私が出来る一番の恩返しはきっと先生に会わなくても一人でも大丈夫になる事だって思って、自分なりに日常を取り戻そうと戦ってきたから、今日その可能性を示唆してもらった時は凄く凄く凄く嬉しかった。まだ全然だけど、ちょっと実際進んでんじゃん!って、気分も明るくなるよね。こういうの、いいと思う。嬉しかった事がとても嬉しかった。だから大丈夫って思えた事も嬉しくて、頭のおかしい歪んだ穢れた私のグチャグチャな生を、それがとても汚いと分かっていても、その中で待ってる今日みたいな儚い嬉しさを見るために、もう少し頑張ってみようって思えた事が、嬉しかった。大事なのはこれで、人生の中で明るい方を見ようと気をつける事で、こういうのが大切なんだって思った。

でもまあ嬉しい事もあればしょっぱい事やら絶望事項もあるもので、やっぱ私はカウンセリングでは治らないっぽくて、メインをカウンセラーから精神科医へと移すみたいな示唆が伏線のように結構前からあって、今日比較的はっきりとそれを示されて、まあそれ自体に関しては「プロの判断だからそれがいいのだろうなー」と単純にそのまま捉えているのだけれど、なんか自分の頭の深刻さみたいなのを見せつけられたみたいでしょっぱいなあと思った。でもそっかって。人生。宙に浮いた私の人生を掴むチャンスだと思えば。思うのは簡単で、実際はえげつない。論文の構成を考えるのは比較的簡単でも、具体的に内容書き始めると全然進まない。そんな感じで、私の中ではぴったしくる表現でも全然伝わらない事ばかりで、今日も渾身の表現は全然伝わらなかった。何がこんなに怖くてたまらないのか、何が私を日々追い詰めているのか、相手に全然伝わらなくて、その時だけ使ってる言語が全く違うみたいだ。あれーって、これ、こんだけ私の事を全面的に全力で受容しようとしてくれているプロにも全く伝わらないって、これもう世界中の誰にもこの怖さとか絶望とかって絶対伝えられないんじゃないかって、なんかそれって物凄く孤独だな、これから先私は究極的には一人でこの恐怖に立ち向かわないといけないんだな、それってまあまあえげつないな、と思った。やっぱり人間って共感を必要とするから、共感の得られないこれを私は一人で、そうかあ、うーん、最悪10年も?私の人生を掴む?うーん、掴めるのは嬉しいけど過程がえげつなさそうで、それはとても怖いであるなあ、とか考えて、なんだか、なんというか、まあ辛いものが。でもとりあえず一人でやるしかない。自分で自分の手を握るしかない。まあ、いいんじゃないの、そういうのも訓練として必要だよねって思う事にする。そうじゃないと救われなさすぎるって。せめて出来る限りを明るく解釈しようって意識しないと、そうじゃないと簡単に私には絶望しかなくなっちゃう。そんなの、嫌だよね。哀しすぎるよね。哀しいのも絶望も嫌だね。それはまるで海底ケーブルを齧る烏賊みたいに、人と人とを切り裂くような、嫌なものだね。

嬉しいは簡単に消えてしまうのに、怖いはずっとずっとここにあるのって、不公平で、歪んでて、多分おかしい。少しでも、変な事に、おかしな事に、歪んでる事に、怒れるようになりたい。最小の暴力で。海の底で蠢いて水面を微かに揺らす何者かに、いつかきっと会える。

薄っぺらくて簡単に消え去る明るさでそれでも照らして。

私の人生。私の人生。

わたしのじんせい。