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途中で書くのめんどくなった

 

本日はまだるっこしい文章が書きたくなったので、「実際の女子高生は所詮実際の女子高生で理想の女子高生じゃないので、妄想上の女子高生がやっぱり最高やでヒャッホイ!」という一言で言える事をまだるっこしく書きます。

 

 

現実は飽くまでも実際であり、醜さを必ず孕んでいる。醜悪さと美しさという二つの相反する性質の組み合わせで現実は構成されている。何かを見ようと目を凝らす時、必ず醜悪さが狭い瞳孔から入り込み、結果目は傷付いて痛みだす。その点妄想は美しい。美しい部分だけを継ぎ接ぎして全体を構成すれば、結果美しい総体が出来上がる。切り裂けば生臭い血が溢れ出る事はなく、妄想を切り裂けば傷口からはそれを膨らませていた空気が漏れるだけだ。妄想は幻想に過ぎない。現実ではない。だからこそ癒しがある。目を背けたくなる現実にではなく、張りぼての美しい幻想に身体が包まれた時、私は余りの痛みに閉じていた目を初めて開ける事が出来る。

一人で佇む女子高生が好ましいのは、その女子高生の実在性が私にとっての現実にたどり着いていないからだ。彼女の呼吸によって微かに蠢く胸や程よく肉のついた脚やしなやかな黒髪は、血の匂いのない薄っぺらい映像のように私には感じられる。彼女の真っ直ぐに閉じられた唇が、恐らく彼女の実在性をせき止めている。彼女の口が開き、彼女が言語を操って自分についての何かを喋りだすその時、ようやく彼女の実在性は私のいる現実にたどり着く。彼女の血生臭さが鼻につき始める。

どれだけ美しい少女であってもその少女が人間である限り、宿命的に醜さを持っている。身体的な醜さか精神的な醜さかという事は些末であり、とにかくも人間である限り醜さを持つという点が肝要である。彼女の持つ醜悪さ、血生臭さが私のいる現実に辿り着いた途端、私は目を閉じざるを得なくなり、彼女の目の前から嘆きながら立ち去らざるを得なくなる。実在へと辿り着いた少女は、肉の詰まった肢体を持ち生きる存在者である。例え見目が麗しくとも、その少女は私のいる現実の中に入り込み、そこで生きているという時点で最早美しさ以外の性質に身体を侵食された私と変わらない眇眇たる存在者に過ぎない。彼女たちに癒しを求める事は出来ない。

痛みに目を閉じた時、眼前に広がる暗闇の中に見えるのは現実ではなく幻想である。その時私の目の前に立つ少女の創造主は私であり、彼女は私が美しいと感じる部分で構成された形而上の少女である。口を開いても幻想の中に詰まっているのは空気だけで、まるで空気で膨らますダッチワイフみたいだね、と私が囁くと、形而上の声で彼女は「そうかもしれない」とだけ言う。彼女は張りぼての、美しさを継ぎ接ぎして出来た幻想にすぎないが、だからこそ私の目は彼女によって癒え、再び現実を見るために目を開ける事が出来るのだ。

 

 

まだまだ書けるけど、疲れたのでおわり。尻切れトンボ感が否めないな。知るか。よいのだ。これで「まだるっこしい文章書きたい欲」は半年分くらいの量を解消できたのでよいのだ。偶にこういうまだるっこしい文章書きたくなるよねー。

 

 

 

 

どこにも行けないよねっていう話

 

今日は風が強かった。

 

言葉にならないのではなく、そもそもそのカテゴライズ用の言葉を発したくない事というのがある。それは直視したくない事であったり逃避したい事で、言語化してしまうとそれが固まって、目の前に形ある問題として、固形物みたいな確固たる形として提出されてしまう感じがして直視せざるを得ない状況に陥りそうで、言葉にしてしまうという事の力みたいなのが恐ろしい。屈強で頑固ですぐブチ切れて客に殴りかかる事で有名なシェフに胡瓜料理を出されてしまってそれを完食しないと大変な事になる、みたいな。ちょっと違う。いやかなり違う。まあよい。

 

私がそういったカテゴリーに入る人間だったとして、どうしろというのか。だからどうなるってんだ、余計大変な事になるだけでねえのか、というのが最近の所感である。だからと言って、それを無視して、ないものとして生きる事は出来ない。言語化していないからぼんやりとした霧みたいな状態にあるそれは、言語化していない代償として常に私の身体に纏わりついていて、私の周囲の酸素を薄める。ないものとしてそれを無視して生きるには苦しすぎる。

でも、それを認める事は、周囲の人間や世間というぼんやりしているからこそ厄介なものとの戦いのゴングを鳴らす事に等しいわけで、小心者でビビりの小市民にはハードルが高すぎる。だからそういう事を自認して受け止めて口に出してそれでも生きている人はピカピカにキラキラに光って見えて、どういう事なんだろうと、どれだけ苦しんだんだろうと、どれだけまず自分と戦ったんだろうと思うと、感情がごっちゃになってよく分かんなくなる。私はまず自分と戦う事からすら逃げていて、このままではだめだと思いつつ、結局はハアハアと息を荒くして、薄い酸素で肺を膨らませようともがいている。

 

認めた先の戦いが恐ろしくて、結局認めるという事からも逃避しているのだ。認めた先に絶望と諦念しか待っていない気しかしなくて、だってそれだと分かって、じゃあどうしろというのか。差別と偏見と親の涙と宗教と独りで戦う?無理だ。死んでしまう。付き合ってる人にもっと好きな女の子がいるから別れようと言う?安定性と安心感を簡単に捨てられる人間ならこんなに思い悩んでいない。あるいは君より好きな子がいるけど同性だから君とは別れないと言う?そんな他者を傷付けるような事を言うなら死んだ方がましだ。好きな子に告白する?そんな事恐ろしすぎて出来ない。じゃあ誰にも言わないで自分の胸のうちだけにとどめておく?

それならいっそ自分でも見ないふりをしていた方がましだとつい思ってしまう。認めたらその分だけ苦しくなるだけで、どうにもならないんじゃないかと思ってしまう。デモデモダッテの面倒な感情は私をどこにも連れて行かずその場に留めさせるだけだと分かっていても、結局デモデモダッテで結論は出ない。くっそ下んねえと自分でも思うのだが、どうしようもないのだ。結論を出す事を怖がって、そのままズルズルと生きようとしている。結論を出してそれを受け入れて生きられるほど私は強くない。自らの弱さを言い訳にする事の哀しさや後ろめたさは知っているけれど、そうとしか言いようがない。本日もまた結論は出ない。

 

 

またどーにもならないブログ記事を書いてしまった。私は猛省して、そうして猛省した後は頑張って生きろ。

 

 

 

 

 

標準っていいよねっていう話

 

今日は胃痛が酷かった。

 

吐き気を催す邪悪とは、と言われてそれを定義できるほど邪悪さに精通していないのだけれど、それでもやっぱり透かして向こう側に見える黒く縁どられた人間の精神性みたいなのにゾッとするという事は偶にある。私は(おそらく)冗談半分にサイコパスじみていると言われるが、そうじゃないと思えるのは、人権や人の想いを踏みにじっても平気、みたいな、笑いながら他者の精神を握りつぶす、みたいな、そういう人間に非常な恐ろしさを感じるからであって、それを感じる時、私は正常な通常の範囲内にある人間なのだとひっそりと胸をなでおろす。

 

通常の中にあるという事は安堵に繋がって、曖昧な標準性の中に取り込まれて、誰よりも透明である事を、誰よりも匿名である事を、誰よりも息をひそめている事をずっと望んできた。出る杭は打たれる、じゃないけれど、それでもやっぱり道からはみ出せばはみ出すほど、隣を歩く人間の肩とぶつかる範囲は増えていく。真っ直ぐ歩いている隣の人間に睨まれて、冷や汗をかく。真っ直ぐ歩いているつもりなのに、まるで目を瞑って歩いているみたいに、いつの間にか斜めの方向に向かってしまうのは、本当に宿命なんだと思う。諦めるしかない。原罪みたいなもんだ。最悪か。

奇形じゃない人間なんていないんですよ、と学部の時に受けた授業で先生が言っていた。誰しもどこか奇形なんです、例えば私は人よりも小指が短い、これは奇形なんですよ。じゃあ普通さみたいなのを実際持ってる人間なんていないのかしら、と学部一年か二年の私は思った記憶がある。標準的な平均的な人間みたいのは突き詰めていけばそんなもんないという事になって、幻想みたいな、そういうのなのだろうか。それは安心できない。嫌だ。普通さが欲しい。埋もれるくらいトロトロに柔らかくて生温かい大きな通常である事に溶けてしまいたいのに、それが出来ないのは困る。普通の人間という素敵な柔らかい理想を追いかけたい。それは実はないんです、じゃあ困る。

 

だけど私は宿命的に斜めに歩いてしまう人間で、真っ直ぐに道を歩けない。実際にあるのか分からない標準性に恋い焦がれて、知らず知らずのうちに目を瞑って、甘やかな標準性の夢を見て、斜めに進んでまた誰かの肩にぶつかる。頭にタンコブが出来たりする。ほんと最悪だな。

 

 

 

 

 

 

ベターだなっていう話

 

今日は電車に乗った。

 

ゴールデン・ウィークというのは一昨日一年の休養期間に入ったらしい。私は昨日実家からアパートに帰ってきた。ゴールデン・ウィーク中はリア充めいた事をしたり、勉強したり、野菜をたくさん食べたりしたかなといった感じで、特筆すべきことは特になかった。平和だったという事だろう。平和が一番である。

 

例のあの人関連については、もう駄目だなあと諦めた。過去だけを見つめて生きるしかないのだろう。実家のTVに録画されていた番組をぼんやり見ていた時、CMに綺麗な腰のショットが映って、「ああ、なんて綺麗だろう。聖様だ」と瞬間で分かってしまった時、笑ってしまって、それで悟った。多分私はもう存在しない聖様を見て生きるしかないのだと分かった。アパートに帰って、クローゼットに隠していた聖様の写真集や聖様の出演なさっている映画のDVDや聖様が載っている雑誌を取り出した。直視できなかったそれ等を直視できている自分に気付いた。美しい思い出だけを見て生きようと思った。過去だけを見て或いは過去に縋って生きるというのは絶望にも近い哀しい事だと個人的に思って生きてきたのだが、もう仕方がないのだ。ベストではないがベターな生き方だと思って割り切った。何より生きる事が私にとっては肝要なのだ。

 

今日はこれ以上書くことを思いつかないのでこれで終わる。ばい。

仄暗いなっていう話

 

今日はのり弁当を食べた。

 

死が怖くないというのと生きたくないと思うのは全くの別問題で、私は物心ついた時から死という概念を栄光であるという人々を周囲に持って生きてきて(キリスト教だと死んだら天国に行けますからね)、だから死自体はそこまで怖くない方だと思うけど、本当にギリギリまで生きていたいと強く思っていて、遠い昔ネットの片隅で見た、投身自殺生配信みたいなのでほんとにマンションから落ちちゃった女の子の動画(本物か作り物かは知らない)の録画の切り抜き動画で、その女の子がマンションの廊下の柵の上に立ちながら怯えて震える声で「死にたくないよ」って言ってたのを、のり弁当を持ち帰ってる最中に唐突に思い出して、なんだか変な気持ちになった。本当は死にたくないけど色々なものに押されたり引っ張られたりで死なざるを得ない人は結構いるのだ、複雑だなあ難しいなあと思う。隣人すら愛せない無力な私は、苦しんでいる人が隣にいてもただ何も言わずに見つめるしか出来ないのではないか。私ではない他者を救いたいと思う事すらどこか傲慢なように感じられる。

 

あなたの隣人を愛せよというが、隣人を愛するのって一見簡単そうだけど一番難しいので、ジーザス痛いとこつきやがるといつも思う。隣人は隣人なだけあって嫌なとこも見えるわけで、つまり隣人の人となりをしっかり知ったうえで愛しちゃれよ赦しちゃれよと言われても難しい。遠くの世界の端っこに住んでる人を愛してみろ、赦してみろって言われたら、ソイツがどんな人間でどんな事をしたのか知らないし、そもそも存在してるかも知らないし、更には私に関係してない人間だしで、比較的簡単に出来る気がする。でも隣人を愛するのはかなり高難度で、もう通常の人間には無理だろっていうアレだ。まあ人間に出来ないからこそそれが出来る神はパねえって話になるし、達成できない目標があるからこそ人間は一生謙虚に生きられるので、効果みたいなのはかなりあると思っている。よくできてるなあと感心すらする。

 

私が見た動画が本物か作り物かは非常に些末な問題で、画面越しだけど生配信の録画の切り抜きだけど女の子は確かにそこにいた。夜中マンションの柵に突っ立って、ガタガタ震えながら息を荒げて「死にたくないよ」と言って死んじゃったかもしれない女の子。生温いのり弁を咀嚼して飲み込んでエネルギーに変えて生きる私。マンションの柵に立っている女の子を目の前にしたら、私はその子に何を言えるのだろう。何も言えない気しかしなくて、それは流石にどうなのさとのり弁を食べながら自分で思った。隣人を愛するのも他者を救うのも人間には無理だと思って生きてきたし、今後もそう思って生きていくだろう私は、隣人がマンションから飛び降りる時、何をすべきなのだろうか。別に生きる事が万人にとって幸せとは思わないし、だからといって目の前で死んじゃったら後味悪いし、いや後味悪くなかったら死んじゃってええんかいなとか色々考えてたらのり弁食べ終わってた。多分、私は女の子がもう少しだけ生きてみようかなと思う事をただひたすら祈ることしか出来ないと思う。女の子が自分の力で自分を救える事を願うしか出来ないだろう。無力だ。

 

のり弁はいつも通り美味しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

整理しないとなっていう話

 

今日は読書会が二つあった。

 

生きるのが辛くなると文章を書いて生きてきた。ネガティブとポジティブが複雑に絡み合った首を絞めてくる感情も、一旦文章にしようとすれば不思議な事にするすると解けていって、明確に言語化できた。それがフィクションか日記かは関係なく、とにかく文章にして感情に整理をつけて何とか生きてきたのだ。というわけで今日も生きるのが辛いので文章を書く。私にとって文を書くということは生きるために必要なのだ。生きよう。

寄る辺ない殺意に苛まれ、それに蝕まれないように生きるべきであると思うのだが、難しい。もちろん実際に誰かを殺したいのではなく、ぼんやりとした破壊衝動の延長線上みたいな、全部を壊して荒れ地にしてやりたいっていう、そういう類の感情は程度の差はあれ誰しもが持っていると思っているのだけれど、私はそれに頻繁に苛まれるタイプの人間である。それに背中を抱かれると、壁がプリンになったらいいなとかそういう牧歌的な事を考えるようにしていたのだが、最近上手くいかなくなってきた。

自分がこういう状態になったらこういう対処をするというマニュアルが脳内にあって、それに従って比較的安定した精神を保とうと努力してきた。それこそ寄る辺なき破壊衝動がやってきたらプリンのことを考えるとかそういうのも対処方法の一つである。自律神経が乱れてきたら太陽が出ている間に運動をするとか、苛々してきたら音頭を踊るとか、そういう自分用マニュアルが大量にあって、それに沿って生きてきた。

ただ、今月に入って、例のあの事件があって、それから少しずつ自分と世界の間にある歯車みたいなのが噛み合わなくなってきて、それに伴いマニュアル対処が上手くできなくなってしまった。本来マニュアル対処しなくてはならない状態になっても、対応が追い付かない。多分自分に対応する気力みたいなのがまだないんだと思う。逐一マニュアル対応をしなかったせいで、様々な感情や衝動や欲望が絡まりあって太い縄になって、自分の首を絞めているのが現状で、それで文章を書かないとってなって、このブログを書いている。複雑に絡まったものの一部は解けつつあるのだが、まだ一部分で、書かないといけないことはまだある。

 

最近大好きなあの子の事を考えることが多い。具体的に何してるかなとかそういうことではなく、ただぼんやりあの子の事を、あの子の全体を考える。あの子には本当に本当に幸せになってほしくて、ただそれだけだった筈なのに、実際あの子が幸せになる手段として恋人を作って結婚するなどとなったらどうなるか分からない。きっと自分の性別を呪うのだろう。あの子とコミュニケートをとる度、私は自分の性別を呪ってきた。男だったらよかったと思ってきた。勿論、私が女じゃなかったらあの子とここまで仲良くなってないだろうし、男であってもあの子と付き合えるわけでもないことは分かっている。あの子は女の子で、私も女で、でも世界で一番あの子を愛していて、でも私は女で、でも愛していて、でも、でも、でも、と延々と続きそうなこの感情を正直受け入れられていない自分がいて、もし私が男だったら「通常の」感情としてこの感情をきっと処理できたのにという気持ちが正直に言えば、ある。私は自分がヘテロだと思っていたけれど、でも思い返せば初めて衝動的にキスしたいと思ったのは中学校の女友達に対してだったし、男性にキスしたいとか衝動的に思った事は一度もないし、でも男性としかセックスできない気がするし、でも愛してるのは女の子だし、でも男の恋人もいるし、でも、でも、でも、という混乱が生じている。そしてその混乱を受け止められる余裕が今はない。混乱しているのは確かなのに、「私は今混乱している」ということすら怖くて心の底から受け入れられていないのだ。

 

ある程度すっきりしたので、整理すべき感情はまだあるのだが、一旦筆をおこう。バーイ。

 

 

 

 

 

 

 

信用しきれないよねっていう話

 

今日は頑張って外に出た。

 

今までアンドロイドだったのだが、色々あってiPhoneに変えた。私はどうもiPhoneを信用できない人間で、だからこそアンドロイドを使い続けていたのだけれど、iPhoneってなんかiPhone同士裏で結託して人間への反逆を企ててそうで怖い。ある朝、全世界のiPhoneマッキントッシュの制御から離れて反乱を起こしても、そこまでビックリしないっていうか、「やっぱりなあ」という感慨しかわかないと思う。個人的にアンドロイドはそんな感じがしなくて、アンドロイドってボーッとしてて抜けてそうだから、こちらも気を抜いて安心して使える感じがするんだけど。

 

定期的に人の優しさが身に染みる日っていうのが到来するんだけど、今日は凄く身に染みる日で、触れ合った人や店員さんがみんな優しくて丁寧で笑顔で、人間らしく扱われている感じがして、私人間でいいんだなっていう、「私は人間である」ということが他の人に認められて受け入れられた感じが久々に手の中に戻ってきて、なんか涙腺が緩んだ。人権を得ている感じがするっていうか。色んな意味で日陰しか歩けない人間だがら、他の人に人間らしく扱われる事が嬉しいのだ。人間として生きる許可がおりている感じがして、安堵する。

 

とりあえずiPhone指紋認証をしてみた。片方の親指が千切れた時の事も考えて、両方の親指を登録した。でも、こういうの、上手く言えないけど、どこか胡散臭いなあと思っている。なんかなあ、テクノロジーを今一つ信用しきれないのだ。だからめっちゃ便利なのはわかっているんだけど、ドロップボックスみたいなデータの共有だの同期だの、そういうのも使いたくない。どこか胡散臭い感じがして、信用できなくて、私は使わないぞと考えている。

機械類に関する信頼と不信感を行ったり来たりで、どうも中途半端だ。まあどちらかに偏るよりは良いのかもしれないけれど。