世界は狭くて、だから空気は薄くて息苦しかった。狭い世界に人が詰め込まれて、空気を求め喘ぐ沢山の人間に踏みつけられ、私は空気を上手に吸えなかった。みんな同じで、みんなうまく空気が吸えなくて、人いきれから逃れようと、空気を求める事しか考えられなくて、他人の事を省みる余裕なんてなかったのだろう。みんな息を吸う事で精一杯で、自分が人を踏み台にしている事になんか気付けない位に、世界は狭かった。

世界は広い。どこまでも広がっていて、私になんて分からないくらいに広くて、空気は潤沢にあるのだと気付いた後でも、でもそれでも私は空気が上手く吸えなかった。首には常に誰かの手が纏わりついていて、ゆっくりと首が絞められて、空気の上手な吸い方も忘れていて、どうしたらよいのか分からなくて、ぎこちなく息を吸い、吐いた。それを何度繰り返しても、ぎこちなさはぎこちなさのままで、そして窒息した。

自分の錆びた機械みたいなぎこちない生き方が嫌いで、自分の致命的な不器用さが嫌いで、自分の愚直さが嫌いで、自分のエゴイスティックな部分が嫌いで、なにより自分の暴力しか使えなかった幼さが嫌いだった。私は嫌われて当然で、私は憎まれて当然で、私は復讐されて当然で、私はいつか殺されるのだと思っていた。殺されても仕方ないと思っていた。首に絡まった細い指に力が加われば、私は息が出来なくなって、簡単に死ぬ。「あの子は私に怒っていて憎んでいるのだと思う」と言った時、医者に「あの子があなたを憎むわけがない」と本当に珍しく強い断定口調で言った。そうだったら私は大分救われるけれど。

この私だけがこの身体を動かす事が出来るという事は嘘かもしれない。この私の所有する人生はなかったのかもしれない。この私はあの子の代替物に過ぎないのかもしれない。と考える時、今までの人生で蓄積されてきた様々な違和感の説明が上手くいってしまう事が恐ろしかった。それ等の違和感の一つ一つについては、それぞれ別の説明を(1つをのぞいたら)半ば無理矢理与える事が可能であるけれど、それらの単純な仮定を置いてしまえば、全てを綺麗に説明できてしまう事がたまらなく怖かった。無論、仮定の話だ。今考えるべきではない仮定の話だ。

宙に浮いた「私の人生」を取り戻そうと、「私の人生」が実はあって、それは紛れもなく私のものである筈だと思って、色々してきたけれど、なんだか空回った。「私の人生」は宙に浮いたままだった。私はずっと地に足が付いていなくて、人生が道みたいなものだとすれば、その上にぼんやり浮いていた。私は誰か別の人のための人生において生じるやらなくてはならない責務を代わりにしているに過ぎない、という感覚の方がずっと強かった。自分の人生を大事にするという事がピンとこない。そうすべきだという事は理解できる。でもこれは私の人生ではないのだから、この人生を大切にするという事が難しかった。今でもそうだ。

「あの子は怒って当然だ」という言葉と「あなたは怒りを感じないのか」という言葉。私は怒りを感じない。あの子はあの時確実に憎しみを発露して怒っていて、でも私は怒れない。私はそれ等をされた或いはそれをした当事者ではないという感覚しかないし、記憶も摺りガラスの向こう側にあって何かがあったという事しか掴めないから、他者に起きた事実をある程度淡々と把握しているだけに過ぎないから、私は怒ろうにも怒れない。あの子があの頃の辛さと怒りを全部肩代わりして生きている。あの子が「私」の怒りや当事者性を全部吸い込んで生きている。この私は宙に浮いて、誰かの人生の上で、当事者であるという責任を禄に感じずに、人生の楽しさと世界の美しさを享受している。あの子は部屋の隅っこで恐らく怒りと憎しみをそのやせ細った身体の内に秘めながら黙って座り込んでいる。あの子は死ななければと訴え続ける。私は生きたいと思い続ける。あの子の死ななければならないという訴えを宥め続けて振り切り続けて、私は今生き続けている。

酷い話だ。

大学の建物の隙間から見える夕焼けが胸を締め付けるくらいに赤くて、風が強くて、髪の毛をバラバラにして通り過ぎていく。生温い髪の毛が赤い口紅を塗った唇にくっ付いて、橙色に染まりきったキャンパス。学生がたくさんいてみんな息を吸って吐いて笑っている、この美しい世界を認識している私は確かに存在していて、でもひょっとしたら、この世界の美しさを本来認識するべきだったのは別の存在者だったのかもしれないな、と思う。あの子はこの世界がこんなにも綺麗だと知っているのだろうか。

世界に私が溶けていく。元から柔らかかった境界線は簡単に爆ぜて、爆ぜた境界線から際限なく私が流出していって、私は薄く広がって、段々私から遠くなっていく。私の輪郭線はぼやけて、なくなっていく。夕方のキャンパスの中で、蕩けて、風に舞っていく。私は一人でいると、簡単に溶けてなくなっていく。私は私である、というトートロジーがロウソクの灯のように簡単に揺らいで、その心もとない灯に照らされる美しい筈の世界までもかすんでいく。自分の手を思い切り握る。思い切り自分の身体を触る。この私とこの肉体が離れていないという事を確かめるように。

でも、隙を見せればすぐに溶けだす同一性と自己を、私の名前を呼んでくれる他者に固めてもらえる、とこの間気付いた。「私」をこの私だと信じて疑わず、私の事を「○○さん」と呼ぶ他者。私の代わりに私を私として同定してくれる他者といると、爆ぜた境界線は修復される。自己がたらたらと垂れ落ちて世界の中に紛れ込んで見つけられなくなる事もなくなる。

私の代わりに私を私だと認識してくれる他者に外から固められて今のこの私は私として生きる事がようやく出来る。 真面目にこの私は他人に生かされている。変な話だ。

 

もし現実の延長線上みたいにリアルなあの悪夢のように私がレイヤーの後ろ側に回った時、君は世界を美しいと思ってくれるだろうか。世界の空気は足りるだろうか。君は上手く息を吸って吐けるだろうか。或いは実はもう君はレイヤーの前に出て、何度か世界を見たのだろうか。だから私の覚えのない事態が起きた事が色々あったり、手に入れた覚えのない物が家にあったりしたのだろうか。世界中の誰にも分からない君には、世界はどういう風に見えているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふぁーふぁーちゃんが唯一の癒しで安全地帯であるため、先程ふぁーふぁーちゃんを摂取した。何言ってるか分かんない。大丈夫私も分からない。大体そんな感じ。どうも私です。日本語が難しい昨今、普通に喋っているそこら辺の人間を真面目に尊敬しているのです。ここ最近の私は隙間をぼたぼた落ちていく言葉にならないサムシングが壺の底の方に溜まっていくのを定期的に廃棄する仕事に就いているわけですが、誰も頼れないから一人で生きていくわけです。言葉にならないです。なんともです。スコップで底に溜まったサムシングを掬っています。表現方法も何もない、述語付けできないやつです。ふぁーふぁーなう、なのです。頭がぼやけてほどけていく。スルスルした手触りのリボンみたいに脳みそが薄く伸びていって、結果として頭蓋からどんどん逃れていく。睡眠は究極的な逃避であり、解放であるのです。放たれです。私は寝る事が楽しみで楽しみで仕方なくて、毎日ふぁーふぁーになるためのを早く摂りたいと焦燥すらしているのです。ふぁーふぁーになると、ほんやりと解放されていきます。勿論生きたいですが、毎日生きるので精一杯なので、すっかり疲れているからです。寝るのは、基本的に、安心できるのです。朝起きるともっと寝ておきたかったと毎日思います。でも夢は見ます。リアルな奴です。嫌な夢は見ると眠れなくなります。よくないです。ふぁーふぁーしてるのは、もう、地に足ついてない、繰り返して毎日を毎日として年月が経っていって、あのね、変に悲観的になるの好きじゃない、むしろ嫌い。でも、なんか私は幸せになる資格がないと、分かってしまって、か細い腕が袖を引っ張る。見えない紐で繋がっている。ぼたぼた垂れてく。全部なくなってく。カーテン。置いていくの。紫色。開いたドア。すり抜けて、思考と思考の瞬間の隙間に滑り込んでくる言葉。透明になっていく準備が哲学なのかもしれない。責任。責任を取らないと。責任をとれ。責任だ。被告人席と絞首台。私以外誰もいない裁判所で、様々な責任の取り方を示され続け、私は多分その中のうちの一つを選択する。頭痛が酷い。ふぁーふぁーの波が強くなってく。何を書いているのかよく分からなくなってきた。打ち間違ってなおしてを繰り返して、毎日を繰り返して、それで。私の意識が後ろに引っ張られていく夢。歯磨きしてよ。歯を磨いてよ。ぼたぼた手のひらから毎日こぼれてく何かと私が、背比べをしている。どこにいる。ここにいる。いつもと同じ。いつもがおかしかったんだ。首を絞められる際限なく止まらない唐突なイメージと私と君?夢と現実を繋ぐふぁーふぁーの橋が気持ちいい。君は死にたい。私は生きたい。死ななければならないという囁きを振り切って、君と私は決して繋がらない。もうずっとふぁーふぁーでいい。ずっと眠りの中でいい。終わらない笑劇。はやく崖から飛び降りろという囁きの中ぼんやりと立っている現実。頭痛。気分の悪さ。絶望。怖いの。全部無くなるのは、眠りは慰めで、ふと、ふやふやとして、壁が柔くなってどこまでも沈んで、全部忘れてく。

 

 

 

 

「○○さんが繊細な心の持ち主だっていうのは前から分かっていたけれど、」 

繊細である/繊細ではないという二項対立を想定した時、自分が圧倒的に前者に属する人間だという自覚はあったのだが、それを隠して生きないと生きていけないと何故か強く信じていて、自分なりには何とか隠してあんまり傷付きませんみたいな顔をして生きてるつもりだったのに、それを特に隠そうとしていた人間に結局隠せてなかったという事が判明し、マジかよショックだわめっちゃ恥ずかしいわみたいな気持ちで昨日と今日を過ごした。でもよく考えれば、隠せるのは自覚的な部分だけであって無自覚な部分や仕草や表情は私には隠せないのだし、ふと瞬間だけ顔に現れる隙間みたいな影や傷付きですら人間は認識できるのだから、気付かれるのが当たり前だ。世界の白と黒が反転し続け、それが余りにも早い頻度で繰り返されるものだから、次第にそれ等は交じり合って、あった筈の真っ直ぐな境界線がぼやけた灰色に近づいていく。美しく2つに分かれていた世界はグラデーションで繋がって、醜く交じり合い、最後には1つになるのか、或いはまた2つに戻るのか。考えたってどうにもならないステージにいる。プロですら予測不可能な明日を私が分かる筈もない。

それを的確に表現するには言葉が足りない。いつも言葉は周囲に溢れて零れ落ちるくらいなのに、いざという時に限って全く足りていない事が判明する。変な話だ。上手く言葉にできない事については「すみません、ちょっと言いたくありません」と言った。目の前に座っていた先生は煙草を吸いながら苦笑いした。言葉にしてもそれは的確からは程遠い混乱した言葉になってしまう。実際精神科医に話すのは、文脈と整合性がすぐに吹き飛ばされてしまうような、秩序と混沌、意味と無意味、肯定と否定、そのような決して交じり合わない筈の二項対立が複雑に絡み合ってまぐわったような、そんな言葉の羅列だ。毎回医者に「上手く話せなくてすみません」と謝るレベルなのだ。その羅列に変に巻き込んで先生まで混乱させたくないという私なりの思いやりだったのだけど、十中八九その思いやりは伝わっていないだろう。

ボソボソと30分程度喋った。「この人も小声でボソボソ喋る事があるのだな」と思った。珍しく先生はほぼほぼ無表情で、ボソボソ小声で喋っているからか声も平板で、でも端々でかなり気を使ってくれていた。

事情を(恐らく大体)察してくれているであろう先輩は、あえてそれに触れないで以前のようにいつも通り接してくれた。正直それでかなり安心した。事情を知らない後輩達はまあまあ痩せてしまった私を真面目に心配していた。素面では持たないなと思って昼間から酒を飲む私を見て、同輩は「お、ガソリン補給すか」と笑い飛ばして終わった。卒業する後輩には「愛おしい」と言われ、お互いに「愛だね」「愛ですね」と言い合った。彼女との関係は愛という言葉で表現可能であると確認しあって、私は指でハートを作った。

わざわざ時間をとって会話の練習をしてくれた遠くのマブダチの人やそのほかの人達も含めて、私の周囲の人間みんな善良すぎかよ、と思って昨日歩いて家に帰りながらほんのちょっとだけ泣いた。涙ぐんだレベルだから周囲にはきっとばれていない。

先月した身辺整理は全部無駄になった。消したものや捨てたものは戻らないけれど、ツイッターもブログも再開して、部屋もまた汚くなっていく。掃除をしないといけないなあと思ったので、とりあえず床に散らばっていた研究書を棚にしまった。

 

 

 

サングラスを半年に一回のペースで壊す。破壊方法は毎回怖い程に同じである。机の前で本読んでいる時になんとなく寝っ転がると、私の寝っ転がる真下にサングラスが罠のように配置されている。これはサングラス業界の陰謀を感じますね。パキン、と音がして起き上がるとつるの部分が分離されている。あー治せない。また買わないと、となる。そんな周期を今年もまた迎え、先ほどサングラスを壊してしまった。毎回同じ方法でサングラスを破壊する私は学習能力が欠如しているが、サングラス業界に貢献している人間として崇め奉られるべきなのではないだろうか。そうではないだろうか。金くれ。

 

 

音楽の再生が終わり気付くと沈黙に包まれているのが堪らなく哀しく切ないので「困った時のヴェクサシオン」という遠縁の美少女の遺言に従いBGMにしているのですが、違う意味で堪らなく哀しく切なくなってきたので、この人生の真っ只中で底知れぬ闇という名の不条理を感じています。ヴェクサシオンと外から聞こえてきた何語かもわからぬ謎のアッパーな曲と飛行機による三重奏を聞いた事によって私の脳みそが完全に焼けこげました。焼けて凝り固まった脳みその焦げ臭いニオイが鼻腔いっぱいに広がります。そんなこんなで新しい脳みそを買わないといけなくなったんですけど、安くて鮮度のいいやつ売ってるサイト知りませんかね。

 

 

 

前夜

 

 

偶にはブログらしいブログを書こうと思うので書きます。珍しいなあ。

 

今日(というか昨日だが)は、9時くらいに起床した。起きて緑茶をグビグビ飲んでから、めんどくさいという気持ちに負けずに化粧をした。最近化粧が面倒くさすぎてマスクで誤魔化しているのでよくない、という反省を込めて比較的丁寧に化粧をした。寒い中そこら辺にかかっていた服に着替えて、ふと気付けば黒いセーターに黒いスカートに黒いコート(しかも履くヒールも黒)というヤバい恰好になっていたので、明るい色のマフラーとイヤリングを付けた。応急処置だ。どうにかなったので10時前に家を出た。まあまあ寒い。

テクテクと歩いて駅に至る。適当にやってきた電車に乗って街の駅まで行く。目の前には幸せそうな家族連れと恋人たちがいた。手を繋ぐカップル、ソワソワしているおしゃれをした幼稚園くらいの女の子、その女の子の話をニコニコしながら聞く母親らしき女性。そんな幸せな光景を目の前にして、あ、今日クリスマス・イブだわという事実を噛み締める。噛み締めれば噛み締めるほど良い味がする。いい感じだ。

街はクリスマス・イブに完全に染まってはしゃぎきっていた。普段の街は無機質で巨大機械のような顔をしている癖に、今日は生の喜びに染まっている。なんだこれは、クリスマスやばいなあ、あ。クリスマスといえば私一応キリスト教徒だったわ、という事で道ですれ違うカップル全員に脳内で「産めよ増えよ地に満ちよ…」と囁くという人によってはかなり趣味の悪い遊びをしていたら美容院に着いていた。流石に何度か行っているので迷わなかった。

店長さんは相変わらず元気そうだった。髪の毛伸びるとやっぱり雰囲気全然変わりますね、と言われてそんなもんかあと思う。自分ではよく分からないが雰囲気が違うらしいよ。髪型等に関してはプロに任せるのが一番という信念があるので、提案してくれた案にそのまま乗っかる。髪の毛を少し切られて、パーマ的なアレをされる。髪の毛を巻いた時の髪型が完全にカントだったので笑いをこらえるのが大変だった。出してもらった手作りの生チョコが最高においしかった。最高。

カーラーを取られてカントからマイケル・ジャクソンになった。次に髪の毛を黒くして、超凄いトリートメントをしてもらい(スチームが気持ちよかった)、髪の毛を乾かしたら、『ガラスの仮面』の月影先生になってた。カント→マイコー月影先生という変容を二時間の間に遂げ、私はマヤを探すために街に繰り出した。

本屋などに行き、買いたかった本などを買って、しばしば行く喫茶店でコーヒーを飲んで、帰途につく。人ごみに暫くいると本当に疲れてしまう存在者なので、その時点でかなりぐったりしていた。疲れのせいで、いつもは酔わないのに電車に酔った。気分が悪くて生あくびばかりしていた。この街にマヤはいないようだった。

最寄りの地下鉄の階段を上っていると、ふと雨に濡れた地面の香りがした。きっと雨が降ってるなあと思いながら地上に出ると、果たして激しい雨が降っていた。傘は持っていない。

近くのコンビニまで早歩きで到達して、そこで傘を買って一人テクテク歩く。生温い雫が額を滑り落ちるのが少し不快だけれど、激しい雨に見舞われたクリスマス・イブの午後もいいじゃないかと思った。酔いのせいで気分は悪いが、気持ちはとてもよかった。家の近くでシャンプーとコンディショナーの入った紙袋が雨に濡れて崩壊し、雨に濡れた道を転がっていくめちゃくちゃ高いシャンプーとコンディショナー(それぞれ3200円ですよ、信じられない)に絶望したのはまた別の話だ。

街にひしめく人たちがみんな幸せそうで、よかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

順序

 

 

食、というものに実はそこまで興味がないのかもしれない。勿論美味しいものは人並みに好きなんだけれど、根底では自分的に美味しくて腹がくちくなれば食事はなんでもいいと思っている節がある。美味しいものは高いし。お金ないし。だから美味しいお店も全然知らない。街に出ないというのもその原因としてあるけど。まあそんな感じで、ご飯がずっと同じメニューでも構わないし(総じて好きなものに飽きるという事が基本的にない)、従って同じチェーン店の同じお弁当が続く事になる。基本的に、のり弁当かからあげ弁当か茄子味噌弁当しか選択肢にない。別のメニューにそこまで興味がない。

お弁当屋さんに行くのがどうしてもめんどくさい日というのもあって、そんな日は夕飯がコンビニのおにぎり二個とパン一つになる。栄養バランスなんてクソくらえみたいな酷いメニューだが、畢竟お腹がいっぱいになればそれでいいので、もうこれでいい。買うものは毎回同じで、シャケのおにぎりと、高菜のおにぎり、ウインナーの総菜パン。コンビニの中で好きな味の食べ物で固定されている。普通においしい。

 

でもコンビニでなるべく買わないようにしているのは、満足感が上手く得られないという点にある。毎回なんか違うんだよなあ不発だなあってなる。別に味とか栄養素とかそういう意味で満足感が得られないんじゃなくて、あのね、食べる順番がね、一番満足感が得られると思われる順番がね、これがね、ないんですよ。これが書きたくてブログ書いてるんですよ。謎の前置きとか、これのためだけに書いた。

毎回パン米米コンボをきめたいという欲望があるので、ウインナーの総菜パンを最初に食べるんですけど、そこまではいいんですよね、問題は米米の部分で、これがね、どっちを選んでも毎回違うんだよなあってなるのだ。パンの後にシャケおにぎりを食べると、『なんこれ、めっちゃ美味しい…最後に食べればよかった…』となるし、高菜おにぎりをパンの後に食べると『なんこれ、めっちゃ美味しい…最後に食べればよかった…』となって、どっちにしろ最後に残されたおにぎりを不満げに食べる事になる。私は美味しいものは最後まで残しておきたいタイプの存在者なので、こうなっちゃう。おにぎりが美味しいのが悪い。自分の中でこの二種類のおにぎりは同じ位美味しいのだから、外側から見ればどっちを最後に食べても美味しいものを最後まで残しているという結果になるのだが、問題は一番目のおにぎりを食べる時の方が、二番目に食べる時に比べてお腹が空いているので美味しく感じる気がするという点であろう。二番目のおにぎりを食べる時にはお腹はまあまあ満たされているので、一番目のおにぎりに比べて美味しさを感じ難い。これが逆に単純な味の好みで比べた時に優劣のつくおにぎりだったらこんな事にはならないのだが、私にとってこの二つのおにぎりは同じ位美味しいので優劣が付けられない。結局どっちを先に食べようが不満が残る結果に陥るのだ。何だこのブログ。

というわけでコンビニで夕飯をすますという事は何とかして回避しようとしているけれど、ちょっと遠くまででかけるのがめんどくさくなる夜もあって、たまにコンビニで夕飯をすます夜が生じて、これ、もう、なん…みたいな不満足感というか、不完全燃焼というか、切ないというか、哀しいというか、そういう気持ちになる。もうコンビニでおにぎり買うのやめろよ馬鹿、ってなるけど、コンビニで食べたいのはやっぱり先に挙げたおにぎり二つと総菜パンなわけで、もう、わたし、よく分かんないよ…どうしたら、どうしたらいいの…どうしたら世界は平和になるの…。おにぎり…ラブ、平和…2017…